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2007年10月14日 (日)

グラナダ・夢想

クラシックギターを弾く者にとって、F.タレガの「アランブラの思い出」は重要な曲であろう。この曲は、フランスのギタリスト、A.コッタンに捧げられている。コッタンは、タレガの演奏を数人で聞いている有名な写真にも姿が見られる。ただ、何か違和感を持っていた。

タレガは、1896年5月にコンセプション・ゴメス女史に出会い、その後、アンダルシアを旅行し、一緒にアランブラ宮殿を訪ねた。一般には、コンチャ未亡人とよばれている。多くの遺産を相続したらしい。「目は大きく黒目、小麦肌、表情豊かで人を惹きつける魅力的な女性」だった(リウスの「F.タレガ」(手塚訳))。「コンチャおばさん」とマイルドな表現をしているHP記事もあるが、おばさんという年齢ではないでしょう。タレガ44歳、ゴメス35歳であった。

Images_2 アランブラ宮殿で、ゴメスは、若いころ感激したビゼーの「真珠取り」のメロディーをくちずさんだ。それを聴き、タレガは、アランブラの噴水、水路を流れる水のせせらぎに霊感を得て、トレモロの名曲の構想を得た。(この曲は、その後、1899年12月8日付けで完成された。)

二人は、アランブラ宮殿近くの「ポリナリオ」というタベルナ(レストラン・居酒屋)でくつろぎ、旅の疲れを癒した。この店は、アントニオ・バリオスのもので、多くの芸術家があつまり、一種のサロンを形成していた。

アンダルシアから帰った後、暫くの間、タレガはゴメスの館で過ごした。また、パリの演奏旅行にも一緒に出かけた。そこで、A.コッタンと出会った。その後、タレガはバレンシアに戻った、ゴメスとの仲にすれ違いが生じたためである。そして、ゴメスは、タレガの弟子のM.リョベートを支援するようになる。

M.ファリャは、1876年生まれで、タレガは1852年生まれなので、24歳離れている。パリで学び、「恋は魔術師」、「三角帽子」などで一躍脚光を浴びたが、生来、人の中にいることが好きではなく、グラナダに居を探していた。彼は、ギタリストではリョベートと親しかった。1919年にグラナダを訪れたファリャは、「ポリナリオ」でギターを弾きまたフラメンコを唄うアンヘル・バリオスと、すぐに親しくなった。アンヘル・バリオスは、アントニオ・バリオスの息子で、バイオリンも良くした。また、ロルカのピアノの先生などから作曲を学んでいる。ファリャは、彼の薦めで1920年にグラナダに引っ越してきた。

グラナダに移住したある夜、ファリャは、アンヘル・バリオスと共に、アルハンブラ近くのパティオでギターと歌、踊りの霊感豊かなフラメンコ即興演奏を聴き、琴線に触れるものを感じた。グラナダで最初に作曲したのが、ギター曲「ドビュッシーの墓に捧ぐ」である。この曲は、ドビュッシーの死を追悼しある音楽雑誌出版社がファリャに追悼文を依頼したが、ファリャは作曲で追悼文としたものであり、ファリャの唯一のギターオリジナルである。この曲は、リョベートにより運指がつけられ、出版されている。

ギター界は、セゴビア、レヒーノ・サインス・デラ・マーサを中心とした新しい時代を迎えることとなった。ファリャのこの曲を弾くセゴビアが現代ギターを象徴するといった評論家がいた。

二つのギター名曲、「アランブラの思い出」、「ドビュッシーの墓に捧ぐ」の影に、感受性豊かな女性ゴメスや、グラナダのタベルナ「ポリナリオ」という古き時代のサロンの存在があったと想像します。それを裏付ける文献的なものは今はありませんので、「夢想」ということになりますが。

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